シベリヤ物語

 

寡聞にして知らない作家だったのだが、堀江敏幸が編者を担当しており感じの良い表紙であるので手に取った。巻頭の「シルカ」の書き出しが大変魅力的だった。

ぼくらはシルカという町に十日ほど住んでいた。ぼくらは捕虜だったから天皇へいかみたいに護衛兵どもにつきそわれていた。

シベリヤ抑留兵の語りであること、それを一人称複数の「ぼくら」と語り、無数の人々として語ること、その面白さに読み始めた。しかしながらこの一人称複数で明確に語られるのはこの「シルカ」と小説パートの末尾を飾る「犬殺し」のみで、他は一人称単数らしい語りになる。

この作品の並びも面白く、「シルカ」ではシベリア抑留兵のロシアの地で出会った人々のエピソードが繋げられ、ほとんどノンフィクションのような語りなのだが、中盤の「アンナ・ガールキナ」ら人名タイトルの作品が続くあたりではその人々について語るフィクションらしさが徐々に滲み出してくるように感じられる。特に「ナスンボ」ではそのナスンボの物語を聞いたというよりはもはや小説家の手によって、その人生が描き出されているようだ。そしてもっとも長い「勲章」は佐藤少将という人物を主役とした権力者の寓話として完成している。ノンフィクションらしさを持って始まった作品が、徐々にフィクション性を増し、個人へとフォーカスしていくという流れだ。そして「犬殺し」というまた一人称複数で無名性を持ちながら、ややフィクションらしいシベリヤから日本への帰還前と思しきエピソードで、小説パートが終わる。

本書はそこから詩のパートとエッセイのパートと続き、詩のパートでは戦争への無常感、皮肉、死の匂いの強さに一点驚かされる。小説パートでは皮肉や無常感はあるものの、戦争によってもたらされた死や罪や怒りからはどこか距離をとってジャーナリスティックな雰囲気さえ持っていたからだ。作者の核にこのやるせなさがあるのだと思うとまた読み味が変わってくる。

エッセイパートはこうした全体の補足として素直に読むのが良いように思う。個人的には巻末の「チタの詩人」が特に面白かった。ここまでの短編にも出てきた「ヨッパイ・マーチ」という語について、チタの詩人のエピソードと絡めて語る話だが、罵倒語である「ヨッパイ・マーチ」の意味するところや使われ方が面白い。ここで語られている内容の正しさを私は判断する能力を持たないのだが、その説明通りであるとすれば、motherfxxkerと似たような意味ということになる。米露で似たような言葉があり、似たような使われ方をしているということになり、それもなかなか面白い。ほとんど間投詞としても用いられるようで、それこそFワードや日本語でいうクソと使うような感じで説明され、言語や人種間の違いはあれ、人間は似たような言葉遣いをするのだなというのが、こうした内容の中で語られるのがひどく愉快だなと思った。

スターメイカー

 

オラフ・ステープルドンは初読。文庫化してくれたおかげで手に取りやすくなったが、サクッと読めるものでもなく、難儀して読み終えた。何らかの人と人が関わるような物語ではなく、これも先日読み終えたダンテ『神曲』のような宗教体験を描いた作品といった方が近い。

本作は、著者と思われる語り手が「生の苦さが身にこたえて」家の近くの丘に登ったところで、宇宙的な精神としてテレパシーに繋がるところから始まる。そこから他の星々の人類との精神面での邂逅、数多の人類の興亡と宇宙そのものの創造と滅亡を経て、ついにはこの世界の造物主〈スターメイカー〉に触れるという流れで進む。ビッグバン宇宙論をベースにしており、1937年発表とは思えないほど現代で読んでもさほど問題を感じない。テレパシーとして移動する語り手が、赤方偏移を描写するところなどは序盤の美しい風景として記憶に残るし、著者が科学的に無知でないことを示す証左になり、それ以後を読み進める支えとなっている。

最初に〈別地球〉という別の姿の人類が描かれる。感覚の中心に味覚を据えた彼らの描写はユニークで、SFとして現代でも十分に読んで面白い。地域によって苦味の解釈が変わる部分など、とても愉快だ。しかし、彼ら〈別地球〉は快楽を受動的に受信できる装置を巡って滅びへと向かう。資本家と共産主義者が争い、軍国主義者は専横し、知性は貧しくなる。このあたりは風刺文学でもあるが、SF的な設定から始まり、社会のアレゴリーとしても読めるという形として取れ、何かをモチーフなどにしなくとも十分なサタイアは成立しうるのだという良い証左のように感じられた。この点は私の世界史的な知識が貧しいため、読み取れていないだけかもしれないが。

それ以後は諸世界を巡り、多くの精神と合一していく。この点で特徴的なのは、複数の精神が混じり合い、全体で一つの精神でもあり、個としての感覚もあり、それが相互作用していると描かれることだろう。人類補完計画がわかりやすいが、個を全体に統一する終極的ビジョンはよくあるが、半世紀以上昔の本作ではユートピアを志向して描かれているためか、合一以上の理想を描こうとしている。

だが、そうしたユートピア像がそのまま続くわけではない。精神的高位に向かおうとする諸世界とは別に個々の利益のために他を破滅させようとする世界も存在することが描かれ、それらの対決と銀河の衰微へと話が進む。〈スターメイカー〉の残酷に慟哭する語り手の姿は、神へと問答を投げかける宗教家のようである。意図的なものと思われるが、神と人類の話であるのに、驚くほどキリスト教そのものとのアレゴリーは描かれない。神霊や天使といった描写は深く作品に根を下ろしているが、キリストについて触れられるのも僅かなら、聖者たちに触れることもない。本作の解説でもキリスト教との関連については触れられておらず、不思議な感じがする。世界巡りと宗教的合一、そして神への問い、そして答えと『神曲』との相似も感じられなくもない展開なのだが。

旅の終わりに、〈スターメイカー〉がこれまで何をしていたか語られ、それは世界を作り、眺め、何度も世界を作ったことが描かれる。造物主がただ自分たちを作り干渉しないどころか、新たに作り直す存在であることに一度は語り手は絶望するのだが、ただ我々を「観照」する存在として捉えることで、大いなる敬慕を抱く。虚無主義に流れず、ただの思慕にも至らぬ決着は好ましいものと思えたのだが、当時反響が大きかった作品のようで、同時代の人々にもそう感じられたのだろうか。

個人的に本作を最も愛着の持てるものとしているのは、冒頭部分だ。愛する妻も子供もいて、なおも語り手は「生の苦さが身にこたえて」家から近くの丘に赴く。そこから見える風景も家族への愛情も、私自身が深く理解できる感情だ。そうした人間的な部分から始まり、宇宙へと飛翔するところが、浮世離れした空想世界や風刺文学とは本作がならなかった要因だろうと思う。エピローグでは語り手は元の丘に戻り、自分の目に映る範囲から地球の他国へと想像を巡らす。時は37年であり、その後に何が起きたか我々は知っている。世界の対立をまとめて語る以下のセンテンスは、現代でも通用してしまう人間の姿を描いている。

もう一方の対立者は、本質的には未知なるものへの近視眼的な恐怖のように思われた。それとも、もっと邪悪なものか。古くからの、理性を憎み、部族的な執念深い情熱をそのために煽る私的支配への狡猾な意思であったのか。

見事な洞察だが、それゆえに悲しい。現代においても変わらず悲しい人間の姿に肩を落としつつ、丘の上を去る。

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

 

ラヴェルの「ボレロ」が好きだ。メロディがいいし、繰り返しの中で、徐々に曲の捉え方、感じ方が変わっていくところがいい。この小説では、911で父を失った少年オスカーが、自分の頭の中でいくつもの発明を繰り返す。それは賢い子供のささかな空想癖のようで微笑ましい。しかし、徐々に「発明」が意味しているものは変わっていく。「発明」とは、父を失った自分の苦しみを和らげてくれるものだったり、父がいなくなっても平気に見える母を拒絶するものであったり、そうしたオスカー自身を守るための空想としての意味も持ち始める。そして、終盤にはオスカーはどうしたら発明をやめられるのか苦しみを吐露する。「発明」という言葉の意味は、徐々に変遷し、悲しみを処理できない、オスカーの苦しみを強調するものに至る。「発明」とはオスカーの幼さであり、苦しみであり、彼自身を守る壁でもある。そうやって同じ言葉が徐々に厚みを持って響き始める。「ボレロ」の繰り返されながら、徐々に増えていく楽器のように。

本作で重なっていくのは、それだけではない。オスカーの父の母、祖母の告白と、父の父である祖父の告白が断章として挟まれる。そこで描かれるのは、ドレスデンの空襲によって、オスカーの曽祖父と大叔母、祖母の父と姉が失われたという事実。その悲しみ。祖父は元々、祖母の姉を愛していた。二人は結婚し、父が生まれたが、父が生まれたことに耐えられず、祖父は失踪した。祖母の姉は、空襲で亡くなった時、祖父の子を宿していた。失われた人々、人々が失われる出来事、そうしたものが何重にも響き合う。

オスカーは、父が残した鍵の鍵穴を探して、ニューヨーク中の「ブラック」さんを探し続ける。その過程で、オスカーは多くの他者の悲しみにも出会う。彷徨の果てに、鍵の宛先は見つかる。理知的に、賢しらに振る舞う九歳の少年オスカーは、悲しみに向き合うことを避け続けている。大好きだった父の死は彼にとって受け入れ難い。だが、鍵穴の場所が見つかったことで(それだけが理由ではないが)、彼は真情を吐露する。赤の他人の前で、そうなる。家族の前でではなく、同じように家族を失った他人の前での告白。その悲しみに、胸が塞ぐ。その時、私は娘二人の父だったし、存命の父を持つ息子だったし、祖父を失った悲しんでいた祖母のことを思い出していた。多くの人の悲しみが描かれることで、本書の中で描かれる悲しみは、読者の愛する人のあらゆる関係を通しての悲しみに肉迫してくる。本書は映画化もしているが、そちらは未見。映画を見ればいいとも言えるかもしれないが、何重にも重なる形で言葉を響かせて、人々がいかに悲しみの中に生き、悲しみと生きるかを描く本書は小説で描かれる意味があるものだった。私個人としては、泣きすぎるので、しばらくは再読は遠慮したいが……。

日本ハードボイルド全集6 酔いどれ探偵/二日酔い広場

 

 

日本ハードボイルド全集6だが、シリーズ第二回配本。第三回配本の大藪も既に読んでいたのだが、こっちを読むのが後になってしまった。この本は私立探偵ものの連作短編『酔いどれ探偵』と『二日酔い広場』の事実上合本版。『酔いどれ探偵』は、エド・マクベイン(エヴァン・ハンター)のカート・キャノンものの贋作として描かれた作品。『二日酔い広場』は東京を舞台にした日本人の私立探偵。同著者によるアメリカと日本の私立探偵ものというわけだ。カート・キャノンものを読んだことがないのに贋作を読むのもなと思って手が止まっていて、たまたま『酔いどれ探偵街を行く』を古書店で見つけたので、そっちも読んでからと思ってたらズルズル読むのが後になってしまった。

『酔いどれ探偵街を行く』は正調ハードボイルドものだ。ルンペン探偵であり、過去に悩まされていることが特徴だが、掲載された雑誌のカラーもあってか、人間関係の皮肉なオチがつくハードボイルドらしいプロットに、タフな探偵による暴力と扇情的なラブシーンが入る。ゲストヒロインの登場がノルマになっていて、作品の流れから少し外れた相手と関係を持ったりしていて、ひねりが少し面白い。レイプ同然に関係を持つこともあるので、現代で読むには少し厳しさを感じる面もある。理想的にタフな男が、事件を解決し、女も得るという、ファンタジーとしてのハードボイルドではあるから、そこを気にするかは好みや意識にもよるが。そうしたマッチョイズムが鼻につく反面、それゆえのセンチメンタリズムが作品を彩っている。特にクリスマスストーリーであり、キャノンがちょっとしたプレゼントをもたらしてみせる「おれもサンタクロースだぜ」が素晴らしい。

キャノンの贋作である主人公が名前をもじったクォート・ギャロンである『酔いどれ探偵』はどうかというと、過去に悩まされるルンペン探偵というベースは同じながら、作家性の違いからか上品な話に仕上がっている。時系列的には、『酔いどれ探偵街を行く』収録作の後に連載されたので、それより後が意識されていて、『酔いどれ探偵街を行く』に登場したキャラも再登場する。その中で、同様の連作短編として、ギャロンが巻き込まれる事件とタフな活躍が描かれるが、事件も少しミステリらしい趣向(密室やアリバイ)がほのめかされたりして、テイストからして違う。お約束の暴力と性的な描写も控えめで、特に性的な描写については、ゲストヒロインは出てきて、色っぽい外見描写まではあるものの、関係を持つことはない。ギャロンはキャノンと違い、紳士で女に手を出さない。手を出しているかのように見せて実はしてなかった、という描写まであるので、意図的なものだろう。作家性の違いなのか、著者の好みかわからないが、当時贋作として原作の続きで連載された(雑誌掲載時はクォート・ギャロンではなく、原作になぞってカート・キャノン表記だった)読者はどう思ったのだろうか。ちょっと違うと感じたのでは、と思うのだが。カート・キャノンのセンチメンタリズムは、マッチョイズムの裏返しであり、マッチョイズムが薄れた『酔いどれ探偵』ではその点でも少し薄い。何が特徴付けているかといえば、ユーモアセンスだろう。『酔いどれ探偵』ではユーモラスなやりとりが増えていて、「気のきかないキューピッド」でのパーティでのトンチンカンなやりとりなどとても愉快だ。集中ベストは掉尾を飾る「ニューヨークの日本人」。ギャロンを筆頭にしたルンペンたちが、ニューヨークで陰謀にはめられた日本人を助けるユーモア溢れる作品になっている。

『二日酔い広場』は一転して、東京を舞台にした私立探偵もの。元刑事の久米五郎が毎度少しひねくれた人間関係をベースにした事件を追う。とはいえ、多くの話が背後に男女関係のもつれを持っていて、毎回殺人中心に話が動くので、少しパターン化が過ぎて、食傷する部分もある。カート・キャノンはファンタジーとしてのハードボイルドと書いたが、こちらはリアルよりのハードボイルドだろう。久米五郎は自分の足で地道に事件を追い、超人的な活躍もない。毎回ゲストヒロインが抱かれに出てくるというようなこともない。女関係はなく、準レギュラーとして甥の弁護士事務所の事務をやっている若い女性が登場するが、彼女が活躍する回でさえロマンスはない。どちらかというと亡くなった娘を重ねて見ていると描写される。東京を舞台に具体的な地名をあげながら、久米五郎は事件を追う。作品が描かれた1970年代末の東京が、作品のもう一つの主役になっている。全体的に小粒でちょっと地味なのだが、読みやすくそこそこ楽しめる。名人芸と言えるかもしれない。集中ベストは、お互いを思い合う気持ちがやりきれなさと暖かさを同時に残す「落葉の杯」。

日本ハードボイルド全集のこれまで読んだ生島、大藪はノワールの流れも組んだハードボイルドだったが、本書で描かれるハードボイルドは、街を描き、人を描くというところにより主眼のある作品だった。叢書の中でも作風は異なり、日本ハードボイルドの深さを感じさせる意図として成功しているように思う。

BABELZINE Vol.2

t.co

翻訳小説同人誌BABELZINEのvol.2です。翻訳同人誌はちゃんと権利を取らないでやってる場合もままあるんですが、これはちゃんと許可ももらった上でやっているそうで、その上で翻訳もやっている熱意には頭が下がります。

主にSF短編が掲載されています。vol.1も良かったんですが、今回も良かったです。それぞれ見ていきましょう。

シュタインゲシェプフ G・V・アンダーセン

シュタインゲシェプフという人々の活力と専門的な技術により創られるゴーレムのいる世界での、一次大戦二次大戦の戦間期での物語。シュタインゲシェプフの創造・修復を手がける創造主のハーツェルは、修復依頼に訪れた家で余命いくばくもない女性と彼女の家族であった過去の大作家が作ったシュタインゲシェプフと出会う。ゴーレムものの短編として、何か特筆する部分はないですが、人間の心情に寄り添う端正さが沁みる一編。

ラブ・エンジン・オプティマイゼーション マシュー・クレッセル

ハッキングにより収集した情報により、相手のことを誰よりも理解したふりをして、恋愛関係を持とうとするサイコな語り手の話。SFっぽく見えるものの、出てくるのはほぼ現代の話。テクノスリラーといったほうが自分では正確に感じます。相手が自分の理想と違うことに勝手にガッカリしたり、その上で自分色に染め上げればいいと考えている語り手のサイコさが笑えるような怖いような。

アウター ホリス・ジョエル・ヘンリー

科学的な何かの事故で変質してしまった人々セプテンバーとその後続世代。その末裔であるトゥーゼンは優しい少年だったが、なぜか異能を発現してしまったことで強まったセプテンバーへの迫害に見舞われ…。古くは放射線などの事故をベースに描かれてきたその被害者への迫害の物語。なんだけど、この設定で異能を持つのは、現代では素朴すぎんかと思わなくもない。とはいえ、激した気持ちを裏に秘めながら進む筆致は読ませるもので、暗い結末も雰囲気がある。

輝きのみが残されて フラン・ワイルド

徐々に人々が植物へと変貌していく世界で、研究者アーミナエはその抑止を目指すが…。人々が様々な植物へ変わっていく様を、いろんな面から描いていき(なんか大学生が多い)、静かに世界が終わっていく様が味わい深い。描写も幻想的。

メンデルスゾーン セス・フリード

少年と動物につけられた名前がタイトルになっているとサキ「スレドニ・ヴァシュタール」を思い出すが、あの残酷話とは違うテイストの懐旧と多分成長の話。標準よりも大きいアライグマが町の通りを、人々を嘲笑うようにめちゃくちゃにしはじめる。天才発明家で、かつての特許料のおかげでほぼ隠遁状態の父は、そのアライグマを「メンデルスゾーン」と名付け、生き生きとその戦いに取り組みはじめる。語り手の少年から見た父の姿とその戦いを通して少し大人になってしまった姉、その関係の描き方が抜群に良い。父はユダヤ系と思われていて、周辺住民とも感情的に軋轢がある。この不穏さが流れる中、父はメンデルスゾーンを無事捕獲することができるのか。この収録作の中でもかなり好き。本書収録作家は未訳作家が多い中、単著が翻訳されている多分唯一の作家でもある。そっちは未読。

いつまでも夫に愛されるための五八のルール ラフィアット・アリユ

夫が浮気していると思った妻は、呪術の力を使う母の友達のおばさんを頼るが…。ちょっとした疑心から軽はずみに夫の心を手に入れようとしたことで手痛いしっぺ返しを食らうが、妻の想像を超える強さ、あるいは狂気にたどり着く結末が印象的。いいんかそれで…。

バーニング・ヒーロー A・T・グリーンブラット

能力者ものその二。こちらは原因とかなく、不意に目覚める能力。サムは自分の頭が突然燃え出す異能を得てしまい、今までの生活を失ってしまう。能力者の集まりに加入してヒーローになろうとするが、与えられたのは前職の経験を生かした経理の仕事だった。異能者への迫害、孤独といった手垢のついたテーマで新鮮味はないが、孤独や自分の身の置き所のない青年が居場所を見つける物語として味わい深い。”サムが燃えるところを見てみよう。”と始まる、読者にサムを客観的に眺めることを促す文章もその良さに一役買っている。

新鮮な空気 レティー・プレル

仮想現実に完全に没入して過ごすことができるようになった世界。シングルマザーのレイクは努力して稼いだお金で、仮想現実への移住に成功した。一度仮想現実に入ったらもう現実に戻らないのが普通な中、息子のジャレッドは頻繁に現実に戻っているようで…。母の息子への想いがから回る様が胸に迫る。子のことを大事に思っているが、煩わしくも感じる描写がリアルで苦しくなった。仮想現実への没入方法が黒いフードに包まれるというもので、マトリックスをマイルドにしたような世界観ですが、設備がちょっと古そうだったり、現実的な不安感があるのが良いです。

終止符 ジェラール・クラン

宇宙の終焉を描く形而上学SF。レ・コスミコミケのような話をもっと現実的なディテールで描いたといったらわかりやすいでしょうか。叙情的な書きぶりが酔わせてくれてなかなか。

イムノ・シェアリング時代の愛 アンディ・ドゥダック

致死性の感染症が蔓延した世界で、人々は自分の免疫を伝播させることで生きながらえていた。国同士の交遊は絶えていたが、自分たちの関係性と住処に耐えられなくなった四人は外へと乗り出す。免疫を与え合うために交接する人々の中で、愛とは何かを混乱した世界の中で見出して行く人々の物語。驚くことに発表は2019年。世界観に独自のものがありそれだけでも面白く、その上、四人の違いに向ける感情の機微が徐々に見えてくることで結末には哀愁が漂う。本書の中でも最も読んでほしい一作。

レム外典 ヤツェク・ドゥカイ

『完全な真空』の解説として書き下ろされたという出典からして笑顔になるポストヒューマン時代の創作と文学研究をモチーフにしつつ、レムを評してみせる作品。特にレムの見ている世界を分析してみせるくだりは白眉。p228がそれだが、ちょっと長いのでぜひ読んでもらいたい。レムファンの方がニヤリとできるのではないだろうか。

単数Theyの発明と翻訳の可能性 白川眞

巻末のこれは評論。単数Theyのことはすでに知っている人も多いと思う。知らない人はググってください。それかこの評論を読みましょう。単数Theyを取り巻くものが整理されています。新しい訳語を提案するべき、と著者は言うが、冗談めかした提案に終わっているのだけが残念。私も訳語は新たに作られるべきと思うが、普及するほどの決定打がまだないだけに、見てみたかった。翻訳家の方々も苦戦しているところで、難しい注文だと言うのは承知ですが…。

 

同人誌なこともあってか、翻訳11編も載ってて、1500円(+税)なんですよね。出版社から単行本で出たら、もう1.5倍か2倍してもおかしくない。安い。まだ在庫あるようなのでぜひ。

熊とワルツを

 

小説以外の感想を書くのは、約一年ぶり。久しぶりにアウトプットできる状態になってきたので、Qiitaの方に、スクラムマスター関連の話も書くつもりで準備してますが、まずはこっち。

プロジェクト管理の中の、リスクとどう向き合っていくかについてみっちり書かれたもはや古典。一冊丸っとリスク管理とは何かから、お前らちゃんとリスク管理をやれと繰り返されるので、ちょっとくどいくらいではありますが、それほどリスク管理が適切にできているプロジェクトは多くなく、かつ重要であると言えるでしょう。実際、本書に描かれているレベルで、きちんとリスク管理ができているプロジェクトに参加できたことは、自分は少ないです。悲しいことです。

リスク管理の重要性については、本書の第一部、第二部を読むことでわかるかと思います。読まなくても、実体験として知っている人も多そうです。そういう意味では本書で重要なのは第三部「リスク管理の方法」です。著者のツールの説明や、16章以降のインクリメンタルな開発の提案はアジャイル開発で馴染みがある人は不要かもしれませんが、それ以前のリスクを含めたスケジュール管理をいかに実施するかという点は、今読んでも色褪せません。褪せててほしいというのが本音ですが、残念ながらためになります。ITプロジェクトのプロジェクトは間に合うか、間に合わないかの二択(早く終わることはない)という著者一流のジョークには悲しい笑いが漏れてきます。

一読だけでも内容は頭に入りますが、リスク管理手順の具体的なものが22章にあるので、実践もしやすいです。今後、再読するときもここを手掛かりにして、使っていけそうです。

本書はとてもいい本です。こうやってリスク管理をしよう、それに基づくスケジュールを立て、プロジェクトを進めていこう、という気持ちになります。そして、気づきます。自分の立場で、プロジェクトのスケジュールに意見できるだろうか? 自分の立場がどこであれ、決定権がなければ上司にエスカレーションすることになるでしょう。上司は話を聞いてくれるでしょうか。そんなリスクに対する構え方は過剰だ、と言われるかもしれません。そんな時に、これを読んでください、と渡せるのが本書だと言えます。これを読んで、まだリスクに正しく向き合わない人は多くないでしょうし(とはいえ環境が許さないこともままあるでしょうが…)、向き合わない相手やプロジェクトならば…。あまり考えたくないですが、そういうこともあるかもしれません。ところで、本書の21章でデスマーチは多くの場合、価値のないプロジェクトを、献身によって価値をダンピングしているプロジェクトだ、と看破しています。なかなか至言だと思いますが、いかがでしょうか。

時間の王

 

結構前に読み終えてたんですが、やっと書くことがまとまってきたので感想書きます。

中国の作家宝樹の短編集。書籍として作品が邦訳されるのは今回が初です。いくつか短編がアンソロジーSFマガジンに掲載されていましたが、今回はほぼ初訳の作品ばかりになっています。

宝樹というと三体の二次創作が商業的に出版されたことで有名ですが(今年邦訳が出るはず)、国内に類例があったっけと思ったら『ビアンカ・オーバーステップ』の例がありましたね。他にもあるかも。『ビアンカ・オーバースタディ』のアニメ化の話はどうなったんだろ。

本書収録の短編はほぼすべて時間ものです。既訳がある未収録の三編もうち二編が時間ものなので、時間に対するこだわりが強い作家と言えそうです。解説でも立原透耶氏が『中国の梶尾真治』と思っていることに触れられていますが、時間ものかつロマンスが多いこと、ユーモアもあること、小松左京と比較したくなる劉慈欣に対する後続世代かつエンタメにこだわった作風という点でも共通点が多いです。

時間ロマンスが多いのですが、その構図は類似したパターンが多く、さえない僕とイケてる高嶺の花の彼女という構図が頻出します。少し前のオタク向け作品か?みたいな気持ちになりますが、単にそのまま上手くいく話にはならず、少しひねっていたり、ただ上手くいく話にならないので、作者も自覚があるような気がします。それでも、合わない人にはきついかなあという感じはします。

とは言え、時間ものとしては一級品です。順に見ていきましょう。

穴居するものたち

本書のベストは巻頭のこれか次の「三国献麺記」とする人が多いのではないでしょうか。物語らしい物語はないものの、「穴居」に暮らし、技術を得て、一つ一つ先へと手を伸ばす人類の猿人であった過去から現代文明も破滅した未来まで描く一大絵巻。描かれる未来図、劉慈欣にも似た人類愛、そのエモーショナルさと著者の美点が詰まった作品。

三国献麺記

過去へのタイムワープができるようになった未来で、飲食店の創業譚のつじつま合わせのためだけに、三国志の時代へと飛び、料理を食わせようとする話。三国志の時代の人々は現代より遥かに粗暴なので、大変なことになるというコメディ。主役の男女のやりとりが微笑ましいです。

成都往事

仙女に出会い永遠の生を得た王が、長い時を超えて彼女を追い求める。時代の変遷を活写する筆の達者さは「穴居するものたち」と同様。時を超えた愛の執着というロマンスの常道ですね。型月作品とかでもよく見るやつ。オチはまあ途中で見えると思いますが、とにかくよく書けてるので、このモチーフが好きな人なら満足できる作品。

最初のタイムトラベラー

小品。よくあるショートショートといった感じ。そういう作品も時間ものなので、作者の時間もの好きは相当なもの。

九百九十九本のばら

若干ネタバレではあるんですが、この作品は唯一の厳密に言えばSFではないかもしれない作品。小川哲「魔術師」みたいなもんです。金がなくて情けない「ぼく」たちの青春もの。本当に情けないけど愛らしいやつらの話で、本書で一番好きなんですが、これが一番好きというとお前…って言われそうなやつ。中国でも変わらず男子大学生ってアホなんですね。

時間の王

表題作なんだけど、ショートショートを除くとこれが一番微妙と感じた。時間によるロマンスと苦しみ。エモーショナルだけど、あまり趣味に合わない。バッドエンドだからかもしれない。

暗黒へ

人類の残された一人が、人類の存続を目指して宇宙の果てへ。先日感想を書いた『時の子供たち』の冒頭とかなりシチュエーションが似てる。最後の一人とAIの組み合わせになる点やそのための決死作戦になるといったところとか。作劇的にそうなるということかもしれない。短編の尺なので、まとまっているけど、話の広がりは当然『時の子供たち』が上なので、印象で劣るか。そこは仕方ないですね。唯一の直球の時間ものではない作品。時間の流れというテーマは含まれているので、広義の時間ものとは言えるかも。

ということで巻末の「暗黒へ」を除いて時間ものという、どんだけ時間もの好きなんだよ、という短編集ですが、全体的に水準以下の作品はなく、楽しく読める短編集ではないかと。劉慈欣と作品の目指す方向性は似ているので、『三体』の次を探している人は手を出してみるのも良いのではないでしょうか。