日本ハードボイルド全集6 酔いどれ探偵/二日酔い広場

 

 

日本ハードボイルド全集6だが、シリーズ第二回配本。第三回配本の大藪も既に読んでいたのだが、こっちを読むのが後になってしまった。この本は私立探偵ものの連作短編『酔いどれ探偵』と『二日酔い広場』の事実上合本版。『酔いどれ探偵』は、エド・マクベイン(エヴァン・ハンター)のカート・キャノンものの贋作として描かれた作品。『二日酔い広場』は東京を舞台にした日本人の私立探偵。同著者によるアメリカと日本の私立探偵ものというわけだ。カート・キャノンものを読んだことがないのに贋作を読むのもなと思って手が止まっていて、たまたま『酔いどれ探偵街を行く』を古書店で見つけたので、そっちも読んでからと思ってたらズルズル読むのが後になってしまった。

『酔いどれ探偵街を行く』は正調ハードボイルドものだ。ルンペン探偵であり、過去に悩まされていることが特徴だが、掲載された雑誌のカラーもあってか、人間関係の皮肉なオチがつくハードボイルドらしいプロットに、タフな探偵による暴力と扇情的なラブシーンが入る。ゲストヒロインの登場がノルマになっていて、作品の流れから少し外れた相手と関係を持ったりしていて、ひねりが少し面白い。レイプ同然に関係を持つこともあるので、現代で読むには少し厳しさを感じる面もある。理想的にタフな男が、事件を解決し、女も得るという、ファンタジーとしてのハードボイルドではあるから、そこを気にするかは好みや意識にもよるが。そうしたマッチョイズムが鼻につく反面、それゆえのセンチメンタリズムが作品を彩っている。特にクリスマスストーリーであり、キャノンがちょっとしたプレゼントをもたらしてみせる「おれもサンタクロースだぜ」が素晴らしい。

キャノンの贋作である主人公が名前をもじったクォート・ギャロンである『酔いどれ探偵』はどうかというと、過去に悩まされるルンペン探偵というベースは同じながら、作家性の違いからか上品な話に仕上がっている。時系列的には、『酔いどれ探偵街を行く』収録作の後に連載されたので、それより後が意識されていて、『酔いどれ探偵街を行く』に登場したキャラも再登場する。その中で、同様の連作短編として、ギャロンが巻き込まれる事件とタフな活躍が描かれるが、事件も少しミステリらしい趣向(密室やアリバイ)がほのめかされたりして、テイストからして違う。お約束の暴力と性的な描写も控えめで、特に性的な描写については、ゲストヒロインは出てきて、色っぽい外見描写まではあるものの、関係を持つことはない。ギャロンはキャノンと違い、紳士で女に手を出さない。手を出しているかのように見せて実はしてなかった、という描写まであるので、意図的なものだろう。作家性の違いなのか、著者の好みかわからないが、当時贋作として原作の続きで連載された(雑誌掲載時はクォート・ギャロンではなく、原作になぞってカート・キャノン表記だった)読者はどう思ったのだろうか。ちょっと違うと感じたのでは、と思うのだが。カート・キャノンのセンチメンタリズムは、マッチョイズムの裏返しであり、マッチョイズムが薄れた『酔いどれ探偵』ではその点でも少し薄い。何が特徴付けているかといえば、ユーモアセンスだろう。『酔いどれ探偵』ではユーモラスなやりとりが増えていて、「気のきかないキューピッド」でのパーティでのトンチンカンなやりとりなどとても愉快だ。集中ベストは掉尾を飾る「ニューヨークの日本人」。ギャロンを筆頭にしたルンペンたちが、ニューヨークで陰謀にはめられた日本人を助けるユーモア溢れる作品になっている。

『二日酔い広場』は一転して、東京を舞台にした私立探偵もの。元刑事の久米五郎が毎度少しひねくれた人間関係をベースにした事件を追う。とはいえ、多くの話が背後に男女関係のもつれを持っていて、毎回殺人中心に話が動くので、少しパターン化が過ぎて、食傷する部分もある。カート・キャノンはファンタジーとしてのハードボイルドと書いたが、こちらはリアルよりのハードボイルドだろう。久米五郎は自分の足で地道に事件を追い、超人的な活躍もない。毎回ゲストヒロインが抱かれに出てくるというようなこともない。女関係はなく、準レギュラーとして甥の弁護士事務所の事務をやっている若い女性が登場するが、彼女が活躍する回でさえロマンスはない。どちらかというと亡くなった娘を重ねて見ていると描写される。東京を舞台に具体的な地名をあげながら、久米五郎は事件を追う。作品が描かれた1970年代末の東京が、作品のもう一つの主役になっている。全体的に小粒でちょっと地味なのだが、読みやすくそこそこ楽しめる。名人芸と言えるかもしれない。集中ベストは、お互いを思い合う気持ちがやりきれなさと暖かさを同時に残す「落葉の杯」。

日本ハードボイルド全集のこれまで読んだ生島、大藪はノワールの流れも組んだハードボイルドだったが、本書で描かれるハードボイルドは、街を描き、人を描くというところにより主眼のある作品だった。叢書の中でも作風は異なり、日本ハードボイルドの深さを感じさせる意図として成功しているように思う。