ポップ1280

 

ポップ1280(新装版) (海外文庫)

ポップ1280(新装版) (海外文庫)

 

帯に「究極のノワール、復刊!」とあるように、ノワールの大傑作だ。ノワールを何と定義するかによるが、人間存在の悪にフォーカスした犯罪小説だと考えるなら、間違いなく本作は傑作だ。

人口1280の小さな郡の保安官、ニックが自己保身のために周囲を破滅に誘っていき、そしてその結果は自分へと向かう、というのが大雑把なあらすじだろう。だが、そんなあらすじのことは考えなくていい。ニックの生み出す黒い笑いに飲み込まれ、夢中になるうちにどうせすぐに読み終わるのだから。

薄暗い話のように見えるが、めちゃくちゃ笑える。政治風刺も気が利いていて、例えば保安官選挙のためにニックがしていることとして、こんな語りがある。

今まではずっと、闘鶏だとかギャンブルだとかウィスキーだとか、そういうものにはおれは反対だという噂をばらまく作戦をとってきた。すると競争相手は、自分もそういうものには反対だと言ったほうがいいだろうと考える。ただ、そいつはおれの倍も強硬に反対するのだ。おれは黙ってやらせておく。誰だっておれより演説が上手だから、何かに反対するにしても賛成するにしても、おれよりずっと強い態度を示すことになる。おれはといえば、何ごとにつけても、信念なんてものはない。そんなものとは、ずっと無縁でやってきたのだ。

p.88

現代においても何かが変わったとは思えない描写だ。

彼の自己保身の薄っぺらな嘘の連発も、そんなものに翻弄される愚かな人々の有様も極めて愉快だ。風刺っぷりときたら、現代で読んでも古びていない。

人間は、大きな問題に簡単な答えをみつけたがるものだ。自分たちに起こる、よくないことを、全部ユダヤ人や黒人のせいにしようとする連中がいる。こんなに広い世界では、うまくいかないことが山ほどあってもなんの不思議もないということが、わからない連中がいるのだ。

p.57

第一次大戦末期あたりを舞台にしているようだが、その時代の黒人差別の苛烈さも背景に織り込まれている。レイシストの白人保安官が、黒人を人口に含めないといけないことを指して、「北部の野郎どもが作った法律のせい」と吐き捨てるシーンなど実に見事だ。

ニックは自己保身のために、態度を飄々と変え続ける。まるで自分を持たないかのようだ。そんな男が、人々を扇動し、破滅をもたらしていく様は、ハメット『血の収穫』のようでもあるが、名無しのオプと違ってニックは徹頭徹尾自分勝手な人間だ。その上、この男には終わりがない。自分の叶える理想がない。だから、最後には当然破滅する。破滅を回避する道もあったはずだが、彼には自分がないので、誰とも対決しないし、柔弱に物事を運ぶ。それはフリでもあるが、実態でもあるのだろう。破滅に至るまでに悟りにも至るが、彼がどのくらい真面目に考えているのかもわからない。その薄っぺらさ! 人間の形をした虚無のような男、ニック・コーリー。相手に合わせおべっかを使い、自分の良いように扇動し、その実、自分の中には何もない。やりたいことも、なりたいものも、ただ自己愛のようなもので自分を守るだけ。トンプスンの描きぶりは徹底している。そして、これはこういった特殊ないやらしい人間を描いたものではない。全ての人間が持つ自己愛を盾にした卑劣な自己弁護、無責任さを暴き立てる。本作を読んでいて笑えるのは、自分のことだからだ。ここに描かれているのは全ての人間なのだ。

目なんか見えないほうがましなんだ、アンクル・ジョン。便所だと言って窓のところに連れてこられて、目が見えないからそれを信じて、そこからしょんべんしてしまうやつのほうが、そういう悪ふざけをする側のやつでいるより、ましなんだよ。そういう悪ふざけをするやつって、誰だか知ってるか、アンクル・ジョン? 誰もかれもがそうなんだよ。

p.184